ハピネスチャージプリキュアと私

 

 ハピネスチャージプリキュアとは幸福をテーマにしたプリキュアである。

 タイトルとテーマというと個人的にはスマイルプリキュアのスマイルがわかりやすいと思う。大変な時代だからこそ、一話一話笑って過ごせるように、そんな願いをまさしく体現するタイトルである。

 じゃあ、ハピネスチャージプリキュアを見たらハピネス(幸福)をチャージできるのか、それに関しては人に寄るかな~と思う。

 ハピネス注入幸せチャージ! ハピネスチャージプリキュア! そういう話だったかというと、どうだろう。未だによくわからない。好きだけれど、あれを見て幸福な気持ちになるといえばちょっと違って、放送当時の周りの雰囲気も含め少し心の痛いところをピリッと引っ張られるような……物語の内実はともかく、そういう感覚だけがずっと五年も胸に残っていて、そのせいで私はあの作品のことを引っかかりとして誰かに吐き出すこともできずにいた。

 

 

 

 私のプリキュア歴はふたりはプリキュア、MH、SSの最初の数話、飛んでスマイルプリキュアからHUGっとの前半までだ。プリキュアシリーズの半分もみてないし、記憶も曖昧であるが、その中でも何故ハピネスチャージプリキュアだけがこんなにも記憶に傷として残っている。

 

 それは、ハピプリが当時の私の迷いや痛み、苦しみに寄り添ってくれた作品だったからだ。

 

 前半22話の大半を費やして行われたひめといおなのぶつかり合い、あの二人の動向を2015年の私は自分のことのように追っていた。私もまた友人といろいろあってずっと揉めていたからだ。どうすれば、ここから抜け出せるのか、前へすすめるのか、そればかり考えていたのに私の行動はそんな願いとは相反することばかりだった。私は悪くないとか、なんでわかってくれないのとかそういう気持ちの渦の中で、同じようにひめといおなも苦しんでいた。そして、ついに迎えた22話。

 

 私はひめのように何か投げ出して捧げて許してもらえるようなものは持っていないと落胆して、それから解決法なんてないけれど、必死に目の前にあることをやるしか無いんだと思った。私がどうなるかはよくわからないけど、物語の中の二人が協力し合うのを見ると少しだけ救われた。光がないわけじゃないのだと。

 そして、その友人と私は今も連絡をとっている。

 

 ところが23話から夏に向けて作品の評判自体が揺らいで行った。プリキュアでは珍しい直球の恋愛描写、そしてブルーの真実、アンラブリーのよくわからない指摘、成長なのかわからない成長。周りの声のうるささが本当に忘れられないが、一番忘れられないのはクイーンミラージュの回で友人の「もし私がミラージュだったらこんなこと言われたらプライドが粉々になっちゃう。耐えられない」という言。そして何がどうしてこうなったかわからない闇落ち誠司回、最終話。

 

 私は気づいたらハピネスチャージプリキュアのキャラクターに共感したり痛みを共有したりできなくなってしまった。

 22話で確かに救われた記憶があるのに、その先の物語をどう見ていいかまるきりわからなかった。わからないからこそ、強い批判に晒されるこの作品を庇うこともできず、されど自分から駄作だと割り切る事もできずずっと心の奥底に淀んで、誰かに話すこともできなかった。

 一度共感してしまったからこそ批判されることが耐えられず、一度疑問に思ってしまったからこそ手放しに褒められることも耐えられなかったからだ。

 

 

 さて、そんな私が何故今更ハピネスチャージプリキュアの話をしているのかと言えば、まぁ偶然である。偶然、コロナ禍で暇であればこそオタクの発表を聞く回を毎週やることになって、たまたま私が二週連続でその機会を得ることになったからだ。最初は風と共に去りぬの話をするつもりだったが、前前週、前週とニチアサが続き、その流れに乗った。

 そこで6年ぶりにあの作品を見ることになった。

 

 6年経ったこと二周目なことで面白いほど発見があった。22話は今見たらそんなに感動しなかったが微笑ましかった。そして相変わらず30話からの流れはよくわからなくて、最終話付近は疑問が残った。ブルーがクズとか色々言われたが二周目の私は彼に少し同情してしまってあんまり悪いことが言えなくなってしまった。

 そんなこんなで発表を二週で合計120分、パワポ150枚くらいで発表した。そしたら聞いてくれた皆さんから二回出会わせて一時間分くらいフィードバックがあってツイッターでも付き合ってくれて、それでもまだ最終話のことはわからなくて寝て起きたらふと悟った。

 

 ああ、プリキュアがただキレイだったから、あのラスボスは折れてくれただけだったのかと。納得なんていかなくていいんだと、地球なんてものはたまたま運良く救われたにすぎないんだって。

 

 そして同じだけ私は考える。

 今の私はもうプリキュアに共感したりできる年齢ではなくなってしまった。一緒に苦しんだりはできなくなってしまった。でも代わりに、彼女たちを取り巻く世界や繊細で言葉にならないような気持ちを読み取ることができる。作者がどのような願いを彼女に託していたのかを考えることができる。

 プリキュアは本来3~7歳の子供たちに向けられた、子供たちの憧れる未来の物語である。私はハピネスチャージプリキュアと出会ったのは彼女たちと同い年かちょっと上のときであればこそ、共感を持って物語を見た。そして、プリキュアの年齢をゆうに上回ってもう一度それを見た今、私は彼女たちの歩く未来にいるのだろうか、そしてその未来としてプリキュアたちに優しくしてくれた大人たちのように私は彼女たちに接する事ができるのか考える。

 すなわち、私は私の幸福のために生きられているか、生きていけるか、そしてその延長線で誰かの幸せを願ったり助けたりをふつうのコトとして出来る人間になれたのだろうかと。

 

 そう問うとき、ハピネスチャージプリキュアは厳しいと同じだけ優しい物語だと思う。

「私もわかんないけど、今日を生きていくしかないよ。目の前の何かを見過ごさないで悩むことは大事なことだから悩めるときは悩んで、それでもだめなことがあっても諦めないで。幸せは意外なところにあるものなんだから、求めることを諦めないで」

 私はあれから6年経って初めてハピネスをチャージする術に気づき、彼女たちと出会えた。

 

**

 

 私とリアルに話したことはわかるが、私のハピプリの思い出はオタクへの恨み節と裏表で、ニチアサのオタクのことをボコボコにけなしたりよくしていたが、今思うと世界には色々な人がいるという把握が私はできてなかったと思う。

 だからもっと心を晒して、きっと仲間がいるとそう強く願えればこんな拗らせなかったのかなとも思うのだが、今の年にならなければ実体験として理解できないことも色々あり、うーん出会いだなと思う。

 でも去年の五周年の祭り参加できなくてすごく残念!!! 同時に、五年間信じてた人、愛してくれた人がいることもすごく嬉しいなと思った。

 あと、プリキュアであるという理由だけで評判が芳しくないハピプリを完走してくださるオタクがたくさんいることも今更ながら知って、プリキュアブランドってすごいなとしみじみと思った。こんなふうにただプリキュアであるだけで愛してくれるって、それって愛だよね(だからこそ合わなかった時にあんな燃えちゃうのかな……)